Sai10のキャッチフレーズが“Make it happen with our firm confidence !” であることは別の記事で述べました。ではSai10とはどういう経歴の持ち主なんでしょうか。今回は、Sai10がこれまでの経験してきたこと、学んできたこと、成長してきたことを述べてみて、”Make it happen“との関連を感じていただけたらと思います。
氏名
齊藤啓一 と言います。齊藤なので、本ブログではSimpleに“Sai10”と記しています。東京都出身。
大学での専攻
本当は東京大学に行きたかったのですが、大学院を含めて3回不合格となり、縁がありませんでした。早稲田大学の当時の理工学部に進学(進学した学部は異なりますが、岸田総理と奇しくも同じ?)し、大学院では理工学研究科(現理工学術院先進理工学研究科₎物理学及び応用物理学専攻で物理を少しかじって、否、物理的センスを磨いて修士課程を修了しました。
栃木県で社会人をスタート
関東に拠点がある大手電機メーカーに就職しました。神奈川県にある事業所に配属かな、と思っていましたが、配属先は栃木県になりました。そこでX線を可視光に変換するデバイス(以下X線センサー)の設計を担当しました。真空管でしたが、結晶成長させるプロセス設計や真空に耐える構造を検討したり、適切な静電電子レンズを構成する電界を決定したりとSai10が設計したものをSai10自身が形にしていく達成感をそれなりに楽しんでました。徹夜も休日出勤もそれほど苦にはなりませんでした。好きで徹夜をしていたわけではないのですが、開発納期遵守・必達は普通と思っていました。
博士号を取得(1996年3月)
博士号をとる機会は、意外と早くに訪れました。担当業務の一つにX線センサーの評価法の国際規格を制定する仕事がありました。Sai10はその国際規格制定の日本代表に任命されました。国際規格ですので、世界中のX線センサーの製造会社であるSiemens、Philips、Tomoson-CGF(現Thales)等が規格制定のメンバーであり、そのメンバーのほとんどが博士号を持っていました。Sai10は初めての国際会議参加後、会社に“博士号は本メンバーでは不可欠である。Sai10にはその取得機会が与えられるべきである”と大きな口を叩きました。
そうしたら会社は、会社に籍を置いたまま、大学院博士課程に在籍しても良い、ただし、授業料と交通費は自費、という条件を提示してきました。当時は家も建て、子供も生まれたばかりだったので、国立大学とはいえ授業料、交通費はそれなりに生活を圧迫して苦しかったのですが、何とか3年で博士(工学)の学位を得ることができました。これも、巡り合わせてではありますが、仕掛けたことが功を奏した感じでまさにMake it happenの一つです
事業拡大の経験
1997年にUKに半年間長期出張しました。ヨーロッパはUSや中国、日本と同等の市場があるので、事業拡大を図るべき、という結論をもって帰国しました。帰国後、応用技術課長という役職者になり、ヨーロッパだけでなく、インド事業の拡大を実行しました。インドは地場の会社とSiemens、Philips、GE等の海外大手現地会社があり、そうした世界の大手とも渡り合えたのは大きな経験と自信になりました。インドにはSQ(Singapore Airline)のDiscount ticketを使って、5年期限のBlueのパスポートも増頁したくらい毎月のように訪印し、その最大の成果はStar AllianceのGold memberになったことでした!
ヨーロッパとインドは現在では会社の主力事業地域です。2つの新しい事業領域を拡大させた経験により、“事業って面白いものだ”という意識が芽生えました。これもMake it happenの考え方がなせる業と思います。
分社(所属社名が変わりました)
入社した大手電機メーカーがある年にいくつかの事業を経営の自立性・自由度向上を目的に分社すると発表しました。Sai10が所属している事業はその対象となりました。一部上場会社社員から、非上場で、子会社の社員になるわけです。会社員の形とすれば面白くなかったです。しかし、事業会社ということで商品の企画から設計・開発、製造、販売まで一気通貫でできることに携われるなら、面白いこともあるかもしれない、と考えました。意図しない転職をしたような気分でした。
事業会社となったからには、企業会計を知っておくことが必要と思い、日商簿記検定2級を受験したのもこのころです。Make it happenの精神です
事業責任者
その後、設計・開発課長を経て、X線センサーの事業責任者(事業部長)になりました。Sai10の担当製品だけとはいえ、事業経営をすることになります。どう売上高を拡大していくか。工場をどう運営していくか。研究開発費で何をやって次の飯のタネを作るか、販管費はどう使っていけばよいか等、収益全体の責任を背負うこととなりました。
新しい原理のX線センサーのマーケットリリースを実現させました。失敗した開発も勿論ありました。でも、新事業を始められ、既存事業は拡大とそれなりの足跡を残せました。
技術士(2011年3月)
事業部長となり、経営に携わることになるわけで、経営の勉強をしようと経営工学の技術士の一次試験を受けてみたところ、合格しました。経営の勉強という目的なら、これで終了しても良いのですが、少し勿体ないとも思い、二次試験を受けることにしました。さすがに経験の乏しい経営工学は難しそうと感じ、X線という放射線の一部を担当していることから、技術士(原子力・放射線)の放射線利用の分野を受験し、2011年3月に二次試験合格となりました。
この試験を通して、AsIs(現状)とToBe(達成すべき目標)とそのGap(解決すべき問題点)は明確に区別されるべきことを学びました。技術士合格の知らせを受けて5日後、東日本大震災が発生し、日本の原子力発電所はすべて停止しました。
スタッフの経験の後、役員就任
事業部長を経験した後、技術管理、経営企画というスタッフ部門の部門長を経験しました。技術管理部長のころから、Make it happenをキャッチフレーズに技術者に対して、製造業では技術は事業の源泉であること、自然は裏切らないから、論理的に筋を通した設計をすること、コスト意識を持つこと等を訴求してきました。経営企画部長は内閣でいえば、社長が総理で、経営企画部長は官房長官のような位置づけです。社長の意図とSai10 の考えの整合を図っていきました。社長のYes manにならないように、かと言って自説を通し過ぎることのないように、そのバランスを図っていく術を得ていきました。これは診断士となって活きることと思います。そして、その後、技術と品質を担当する取締役常務に就任しました。取締役就任後は、感謝/敬意(Respect)の表意とStory策定の必要性等を訴えてきました。
またまた、社名が変わる機会に(他社のグループ会社へ)
親会社の業績が不明確となり、当社は、国内精密機器メーカーに、当社の製品を使用するシステムメーカーと共に売却されました。今度は、これまでと違い全く文化・制度の異なる会社への事業移管です。3度目の意図しない転職をしたような気持ちでした。この事業売却のプロセスでは、各種デューデリジェンス対応等会社売却時の様々なことを経験しました。事業がしっかりしていて、将来性があると売却先に認められることが不可欠であることを痛感しました。
中小企業診断士(2020年11月)
現在の親会社のグループになることが決まりました。この新しい親会社について多くの方に相談する中で“中小企業診断士”という資格を知りました。ちょっと調べるとなかなか資格取得は大変そうだな、ということは判りました。有名予備校の存在も判りましたが、通学できる位置に住んでいる訳ではなく、試験勉強は独学かな、と思ってました。
2018年11月から通信講座の一次試験コースの申込をし、情報収集を始めました。2019年夏の一次試験、秋の二次記述試験は幸いにも一発合格となり、冬の口述試験終了で正式二次試験合格が決まりました。二次試験に対する取組は、同友館から発行されている“フレッシュ中小企業診断士による合格・資格活用の秘訣III“にSai10の執筆担当分に概略を記載しています。興味があれば、参考にしてみてください。2次試験を一発で合格できる肝が記載されている(ことになっています)。20年夏の3回の実務補習を経て2020年11月に中小企業診断士登録となりました。
そして現在も成長し続ける
大手精密機械メーカーの事業子会社の技術・品質担当役員であることは引き続き担当していて、これまでの経験を踏まえて、技術と経営に携わっていきたいと思っています。新しい技術を活用してIntelligentでInterstingな製品を社会に提供していき、当社の事業の発展に寄与していきたいと思っています。Sai10は会社生活のいろんな場所で色んな経験をして、そのたびに多くの成長の機会があり、”Make it happen”の元、この機会を活用してSai10なりの対応をしてきました。これからも様々な場面で仲間とともに成長して、現状に留まることがないようにして行きたいと思います。
それがSai10のみならず、関係する方々の希望・期待する未来に繋がっていければ幸甚です。
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